従業員紹介

従業員紹介

店長 小荒井 幸子

 初めまして。私は店長の小荒井と申します。
当店は開業以来、実に65年以上もの星霜を閲するに至りました。
これも偏に皆様方から賜った、御厚情によるものでございます。
この場をお借りし深く御礼申し上げます。
 内々のことで恐縮でございますが、これまでのことを回顧しますと、それは激動の小荒井製菓史であったと思います。閉店の憂き目に何度もありました、また従業員のことでも苦労致しました。しかしどうにか小荒井製菓を守ってこれたのは、お客様及び肝胆相照らす従業員のおかげであったと思います。

店長

 従業員の中には身を捨ててまで、小荒井製菓のために尽瘁してくれた者もいます。しかしその従業員たちは次々に散華してゆきました。散っていった従業員たちのことを考えると、十分な報恩もできず、申し訳ない気持ちで一杯になります。
 ですからお客様に心の籠った御持てなしをし、従業員を慈しむことが、いつの間やらの小荒井製菓の金科玉条になっております。
群馬県の最北に位置する弊店でございますが、御足をお運びいただけましたら、真心を込めた接客と製品で御客様を御持て成し致します。ご来店をお待ちしております。

製造部 主任補佐 芦川 徹

 始めまして。私は芦川徹と申します。皆様に最良の商品をご提供すべく、日々、研鑽を積んでおります。少し前までは、私にとってお菓子とは、〝海のものとも山のものともつかない〟ものでした。ですから暫く暗中模索のなかを彷徨いました。私の前に立ちはだかったお菓子というものは、明らかに底知れないものであり、不定形の茫漠としたものでした。しかし最近になって漸く、この不定型で茫漠としたものが、多少とも輪郭的なものになっってきたような気が致します。自惚れたことを申し上げれば、最近になって目鼻がついてきました。ミスもかなり抑制できるようになってきました。
 しかしやはりお菓子は人が製作するものですから、製品品質にもコンディンションと言うものがございます。お客様に最良のものを御提供するには、製品コンディションを一定に制御しなければならない訳ですが、私は当初これに難渋致しました。一定の技術を習得したと慢心した矢先、温度や湿度やと言う合理で完璧には制御できない自然の要因が、製品の出来具合に鋭く干渉し、強い影響力を行使してきたからです。
しかし私は最近、漸くこの課題を克服する目途がみえてきました。

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ここで若輩ながら、お菓子とは何かということについて、申し上げさせていただきたいと存じます。
 お菓子を作るには先ず合理的な技術が要請されることは論を待ちません。しかしまた技術は精神と言う伴侶をも要請するのであります。畢竟、お菓子とは技術と精神が交わることで、分娩される愛子と申せましょう。ですから只、冷たい合理によって統制され技術を研ぎ澄ますだけではなく、美味しいものを作りたいという意識、つまり情熱を燃焼させなければなりませんし、また感性をも灼熱させなければなりません。そして職責貫徹への強靭な意思はいわずもがなです。

しかしこれを読まれた方は、きっとこのように思われたのではないでしょうか。青瓢箪の君に技術と精神との関係などわかる訳がない、そのようなことを語るのは早尚である。確かにそうかもしれません。また私はまだ若輩ですから禅僧が真理を正覚するがごときに、菓道を達観することはできません。

先ずは我武者羅に技述の習得・練磨に務めなけれならないのは重々承知しております。そしてまた精神性というものは、ゆるぎない技術を習得してから然る後に、つまり最終的な「道」として模索するものだと愚考しています。「精神」とは、職人として確固たる自己を確立して後の、最後の総仕上げとしてのもの、つまりスパイス的なものであると考えています。そのスパイスは従前の私にはなかった、人間としての妙なるうま味を引き出してくれることでしょう。(恥ずかしながらこの釈明の仕方は常務の受け売りです。私ではこれほど上手くはいえません。)
 しかし若者には多少とも常識を免除されるという特権があります。
或る日、常務がこう申しました。「芦川君、君は常識に束縛されすぎだよ。若気の驕りというのは若者の特権さ。無分別というのも若者の特権。進んで愚かなことをするのもななか乙なもんだぞ。しかしこれがが許されるのは主に若い時分だけだ。だから今のうちに存分にやりなさい。常識はなんてものはまだ尊重しなくていい。」
 憚りながら私はこの言葉に甘えさせていただきと思います。そして中途半端にではなく、やるからには徹底的にやります、全力で無分別(冒険)へと突進して参ります。故に皆様から厳格なご指導を賜ることができたら幸いです。今後とも、皆様より指導及びご厚情を賜れますことを、切に願うものでございます。そして皆様により一層良質な製品をご提供すべく、日々、弛まぬ精進を重ねてゆく所存でございます。

店長補佐 小野 美穂

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 みなかみ町は潤沢な自然に織り上げられています。春、夏、秋、冬と様々な四季の色を繚乱させます。春には山菜取り、森林・草原でのトレッキング。夏はスカイスポーツやウォータースポーツ。秋はキノコ取り、紅葉狩り、登山。そして冬はスキーや温泉が楽しめます。
申し遅れました、私は店長補佐の小野と申します。まだまだ修行中です。
経験不足を真心で補えたらと思っています。
みなかみに御来訪の折は、是非、当店へと足をお運びください。

包装・ラッピング部主任 大竹 真

 常務より自由に発言してよい旨を言われましたので、
ここは一つお言葉に甘え自由に喋ってみようかと思います。
昔から老人の威厳やプライドを保証しくれる言葉として、「亀の甲より歳の功」という便利な言葉があります。そしてこの言葉は、老人のほうが若者よりも経験値が豊富であるということを、強く代弁してくれています。私も当然、ちっぽけな自負心を持っていますから、この言葉を重宝しています。
しかし今の時代では年配者の人間性を評するものとして、「年寄りの冷や水、老婆心を垂れる、或いは老害、そして老醜を晒す。」というものが猛威を振るっているようです。私は既に60代の後半ですから、このよう言葉が既に趨勢になりつつあることを、身に染みて分かりつつあります。

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最近、職場の若者とちょっとしたことで口論になりました。明らかに私の方が正論でした。(私にはそう思えました。しかしもしかしたら相手は、時代遅れなことをいう爺さんだなと、思ったのかもしれません)しかしその若物の勢いには抗しきれず、私から半ば身を引いてしまったようなところがあります。そして一人になったとき思わずこう呟いてしましました。
「「亀の甲より歳の功」、昔からこう言うじゃないか、若造が。仮に俺のいう事が正しくなかったとしても、少しは年寄りを立てるものだ。」

 すると後ろからか微かな笑い声が聞こえてきました。
「大竹さん、その言葉を使えば使うだけ、老いてしまいますよ。青年時代の大竹さんはきっと、こういう言葉をすぐ口にする年配者を、面倒くさい年寄りだなと、煙たがっていたのではないですか。」
気がついたら常務がいました。
「俺も老いたのかなあ、昔嫌いだった言葉がすぐ頭に浮かんでしまう。」(私)
「〜老兵は死なず、ただ消え去るのみ〜ダグラス・マッカサーの言葉です。つまり戦場で何の武功も上げることなく生き残った兵士には、もはやまともな居場所も、死に場所もない、ということです。
「手厳しいですね。それが年寄りにかける言葉ですか。」(私)
「大竹さんは仕事と言う戦場で、名誉の討死に、名誉の戦死を遂げられたらいいかがですか。そしたら周囲の者も一目置くことでしょう。」
「私はとっくに徴兵されるような年齢じゃありません。」(私)
「成程、大竹さんの白髪首を取った所で何の手柄にもならないか。では名誉の切腹などはいかがですか。」
「切腹ですか? 私は家族の収入を賄うために働いているから、それは多分無理かな。こんな老いぼれを仕事に駆り立てなければ、まともな生活が成り立たないんですよ。私の家族の生活を保障してくれるのなら、腹を切るのも悪くない。じゃあそうするかな、介錯は常務に頼みます。」(私)
「ちょっと生意気なことを言いますけど、大した仕事をしてこなかったとしても、愛するに足る、そして大事にするに足る家族がいれば、それはそれで尊いことだと思います。大竹さんの一家は仲睦まじいのでしょう。」
「ま~そうかもね~。少なくとも小荒井家よりは。」(私)
「あはははは、クリーンヒット、或いはクリティカルヒットだ。冗談はともかく、噛ませ犬といっては失礼ですが、若輩に対してわざと一歩引いてあげて、自信をつけさせてあげるのもまた一興ではないですか。若い者に対し、いくら大竹さんが正論をいったところでまず通じません。こうるさい「じじい」だな、と思われるのが関の山です。若者はこれよりずっと後になってから、ようやく、そういう経験を積む場面に遭遇します。その時、昔こんなことをいった爺(じじい)がいるな、しかし多少は正しかったのかな、と思いだす訳です。つまりこんな具合です。そして大竹さんはその若者の思い出の心のアルバムに掲載されることになりますよ。」

 私はこのことについて数日考えました。
言うまでもなく、今の世の中は老人に対する尊重の念がありません。
しかしこれを嘆いたところで、かつての日本の社会が蘇る訳ではありません。
常務が言った通り、そういう老いの散らせ方が今風なのかな~、と私も思いました。長い年月が経っても、私が40も違う~君の心のアルバムの中に飾られていたとしたら、それはそれで冥利と言えます。更に私がかつて〜君に言ったことを、~君が自分の後輩や子供にも伝えてくれたとしたら、私が言ったこともまんざら出鱈目ではなかった、ということが証明されます。そして私が生きていた証にもなります。

当然その頃私は、この世にはいないでしょう。・・・が、その代わり、今言ったように、私と拘った人たちの心の中に生き、その人たちが更に後人に私のことを語ってくれたとしたら、その人の心の中にも私は生き続けてゆくのではないでしょうか。
ということですので、これからも老人のこうるさい戯言(たわごと)を積極的に喋り続けようと思います。

 しかし常務は出鱈目そうに見えて、緻密で深甚です。愚鈍そうに見えて鋭利です。常務の潜在力が多少は分かってきました。今後、接し方に気をつける所存です。

以上

製造部主任  都所 富美子

ここでは自由に発言してよいとのことですので
一応、常務のこの言葉を信用したいと思います。(笑)

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勿論、度が過ぎれば後でお叱りをうけるでしょうが、注意をストレスとして処理するのではなく、注意を成長の肥やしにようと思っております。
少し前、弊社の常務よりブリア・サヴァランと言う方の『美味礼賛』という本をいただきました。この方は十八世紀のフランスの美食家であり、また法曹界の人間でもあったようです。この名前は前々からチーズの名前として知っておりましたが、まさかこれが出どころとは思いもよりませんでした。

精読しましたら琴線に触れるような言葉がありました。この言葉に対し私なりの意見を「述べることで、自己紹介に代えさせて頂きたいと存じます。

・「国民の盛衰はその食べ方如何による。」

これは最もな言葉だと思います。ハンバガーや、牛丼、(ものすごく安い)ラーメン等、これらジャンクフードを常食する日本の国民は、既に凋落の傾向にあるのかも知れません。体に毒であることは言うまでもありませんが、食と言うものは生命を支える根本ですから、これに対してこのような見識しか持てない人が多いということは、亡国の兆しかも知れません。

・「造物主は人間に生きるがために食べることを強いるかわり、それを勧めるのに食欲、それ報いるのに快楽を与える。」

食の思想と味覚の喜びを見事に共生させています。つまり食とは美味しいだけでは駄目であり、また生命を高度な状態で維持するためだけのもの、と言う考えでも駄目な訳です。味至上主義、健康至上主義も駄目なことと言えます。

・「誰かを食事に招くと言うことは、その人が自分の家にいる間じゅう、その幸福を引き受けるということである。」

その通りかと存じます。

・「料理の仕事は女に忍耐と受け身を教える。これは錬金術だ。」

甚だ迷惑な考えかたですが、悔しいことに正しいと言わざるを得ません。

・「魚は川のなかで生まれるが、死ぬときは油のなかでなければならない。」

露骨なまでに合理的で正しいと言えます。
しかしこの方は生き物に対する、惻隠というものがなく、情緒・情操というものに疎いと思います。更に言えば文学的なセンスが低いと申せます。

・「香が加わらなければ完全な味わいとは言えない。」

その通りです。しかし現代人は香料の味しか知りません。例えば弊店ではよくお客様に試作品の試食をお出ししますが、素材そのものの香が分からないお客様が結構いらっしゃいます。そういうお客様に対しては、香料を使ったものを後でお出し致します。すると大抵このようなことを仰います。
「気の抜けた味だったものが、漸く素材本来の味がしてきましたね。」と。
ですから香料を使わない訳には参りません。しかし素材力を尊重する弊店としては、香料の仕様を最低限に抑制しています。
しかし申すまでもなく私は、本当の素材の香をお客様にお届けしたいです。

では私なりに纏めてみます。私は調理師の出ですから、あえてその視点から述べさせていただきます。料理とは言うまでもなく技術です。美味しいものを作らなければ、それを食べる人々は喜びを感じません。そして料理とは生きとし生ける者への垂憐、そして惻隠の情です。私はかつて生簀にいる魚を捌くことを日課としていました。最初の頃は魚を殺すことへの恐怖心と憐みがありました。しかし調理技術が向上するにつれ、それは段々と薄れてゆきました。しかし私の料理の腕を向上させたのは、この魚の命を奪うのだから、貰った命のためにも最高のものを作らなければならないと言う意識です。ですからいつまでも初心を持し、惻隠の情を保ち続けたいものでございます。また料理に添える花等の装飾からは、わびさびを学びました。私は情緒力を多少学んだような気が致します。
では最後に申し上げますと、結局、料理とはなんでしょうか。例えば皆さんは大事な人、或いは愛する人に対して料理を作る場合、どのような観点から作るでしょうか。それはその人が「ほっと」安らぐような料理を作る筈です。そしてその人の疲れを癒すような料理を作る筈です。そしてその人の活力が湧いてくるような料理を作る筈です。つまり私の考える料理とは作って差し上げる方への、さりげない気遣いであり、労りであり、思いやりである訳です。
私はお客様に対し労りの心を持っているからこそ、香料等の添加物を可及的使いたくない訳でございます。味だけを考えるのならば、私は当然、何の躊躇いもなく使うことでしょう。
皆様からは弊社のお菓子に対する考えが、このような理念に基づいていることのご理解を賜れましたら、望外の幸せでございます。

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