建社の精神と企業理念2

小荒井の来歴


 申し遅れましたが、私は小荒井製菓の常務取締役の小荒井と申します。
どうぞお見知り置きくださいませ。前述では、生まれ育った故郷の群馬のことについて少しく申しあげました。では今度は私の血の故郷について申し上げます。

家系

一般的に「小荒井」と言う苗字はあまり耳慣れない言葉かと存じます。私自身もこれまで、自分の名前に冠せられたこの苗字に対して、様々な人々から色々なことを言われてきました。知己ができるごとに、この苗字に対して一言、二言、頂戴したものです。そのなかには詳細な説明を求めてくる人もおりましたし、なかには衒学的な人もいて小荒井家のルーツを知っている人もいました。

 私の出生地は群馬県ですが、小荒井と言う苗字は群馬県の土着苗字ではありません。ということは小荒井と言う苗字のルーツは別所にあるということになります。
我が小荒井家には伝記がありますのでこれに依拠して申し上げたいと思います。しかしあまり時代を遡及しすぎると話が煩雑になりますので、導入部を戦国時代と致します。

 小荒井家は元々は或る地方の豪族でした。ここで「或る」と申したのは以下に述べる藩主の名前を時系列的に俯瞰すれば、直截に言わなくても済むからでございます。
 小荒井家は戦国時代においてはまず蘆名家に帰順していました。しかし名君、蘆名盛氏公が物故すると、当家の衰退に乗じて「独眼竜」、伊達正宗公が侵攻し、当地の支配者になります。伊達正宗は蘆名義広を破り、一躍、奥州の覇者へと踊りでます。
しかし正宗公のこの行為は太閤秀吉が定めた「惚無事令」に抵触するものでした。結局、正宗公は当該事件と小田原参陣の遅延が相乗する形になり太閤秀吉の勘気に触れます。正宗公は秀吉に会津領を没収されてしまうことになります。

蒲生三

 後任の支配者は「風流の利発人」文武両道の名将、蒲生氏郷公です。この方が商工業を合理的に整備し、会津藩の礎を築きあげました。氏郷公は元々は織田信長の近習でした。信長は氏郷公の並々ならない才気、才質を見抜き、娘の冬姫を嫁がせています。また信長自らが烏帽子親にもなりました。氏郷公は姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、九州平定、島津攻め等において、いずれも優れた武功を上げています。

 また氏郷公は利休の七哲の筆頭にも列せられています。つまり武略に優れた武人であったと供に、風雅にも高い素養を持っていた文人でもありました。無論、政略にも長じていました。内政・外政にも卓越した才腕を示しました。所謂、万能の天才です。

画像の説明

 太閤秀吉は、文武に秀でた氏郷公の器量に畏怖し、氏郷公を中央政界から隔離しようと画策します。秀吉は氏郷公に会津92万石の大領を与えます。名目上は不穏分子である伊達正宗への牽制の布石として、氏郷公をかの地へと派遣したと言えます。しかしその内実はは氏郷公の力量を恐れた秀吉が、氏郷公を僻地へと駆逐したものと考えられます。氏郷公は会津領を獲得したにも拘らず、このような慨嘆の言葉を吐露されたようです。
「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」、と。しかし氏郷公は夭折されます。時世の歌は以下のようなものでした。

「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」


死生観から滲み出る美意識が、哀感に染められた花の陰影を濃厚に画いていると同時に、艶めく花の鮮麗さも描かれています。花と四季に仮託されたこの情趣、情操、或いは詩想には、いたたまれない程の凄愴な哀韻の調べがあります。
それにしても何故、私が氏郷公にこれだけの紙幅を割いているのかと言えば、氏郷公こそが雄藩である会津藩の国力の礎石を築いてくれたからです。
そしてここでは氏郷公の逝去に伴い軍神、上杉謙信公の跡目相続を勝ち抜いた上杉景勝公が、会津の領主として赴任しました。

上杉二

景勝公は豊臣政権下において五大老の筆頭を務めました。ですからここでは当然、そこへと至る過程、或いはそれに纏わる景勝公の政才・軍才・智才について述べるのが適当なのでしょうが、ここではあえて景勝公の人間性に絞って少しく申し上げたいと存じます。
 景勝公は感情を表出することがほとんどなかったとのことです。笑みを零したのが生涯においてたった一回であったと言われています。或る時、自分の飼っている猿が景勝公がいつも着座する主座に座っていました。その場所で猿は尤もらしく厳粛に首肯してみたり、或いは家臣に下知を下したりしていました。即ち景勝公の物真似をしていた訳です。これを見てたった一度だけ微笑したとのことでございます。
 伏見城か大阪城で盛宴が開催された時のことです。そこには徳川家康、前田利家、毛利輝元と言った、名だたる諸侯が列席していました。そこでは、太閤秀吉から傾奇御免状を与えられた前田慶次が、猿の真似をしながら面白おかしく舞い踊っていました。そして調子が勢いづいてきた慶次は、大名たちの膝の上に乗るという悪ふざけもしました。しかし宴のなかにおける一興ということで、誰も咎める者はいませんでした。慶次は例の如く景勝公の膝の上にも乗ろうとしました。しかしいざ景勝公の膝下に歩みよると、慶次は景勝公の偉容に完膚なきまでに圧倒されてしまいます。そして慶次は竟にそれをすることができませんでした。前田慶次は後にこう言いました。「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」しかし上杉家は関ヶ原の戦いの敗北によって、出羽米沢30万石とへと厳封されてしまします。

加藤3

その後任として赴任したのが氏郷公の嫡子である蒲生秀行公ですが、藩政の乱れの責を負う形で伊予松山へと改易されてしまいます。そしてその後任には賤ヶ岳の七本槍の一人である「沈勇の士」加藤嘉明公がつかれました。しかし嫡子の明成の時代に藩内に政争が生じ、これが主因となり加藤家は所領を徳川家に没収されてしまいます。その後任には保科正之公がつかれました。そしてこの方が会津松平家を開闢します。

保科

保科正之公の肖像画です。正之公は陸奥会津藩初代藩主、そして会津松平家の初代であります。正之公は徳川幕府三代将軍家光公の異母弟です。幕政のブレーンとして、また重鎮として、中央政界において活用されました。殊に家光公と家綱公を補佐し幕政の安寧に裨益しました。そして藩政に力を注いだことは言うを待ちません。正之公は朱子学を奉じ、当該学問のエッセンス以下のような藩是に集約させます。つまり朱子学は藩政にも強い影響力を行使していました。


一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(諸藩)の例を以て自ら処(お)るべからず。若し二心を懐かば、則ちわが子孫にあらず、面々決して従うべからず。


一、武備は怠るべからず、士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず。


一、兄を敬い弟を愛すべし。


一、婦人女子の言、一切聞くべからず。


一、主を重んじ、法を畏るべし。


一、家中は風儀を励むべし。


一、賂を行い、媚を求むべからず。


一、面々依怙贔屓すべからず。


一、士を選ぶに、便辟便佞(べんべきべんねい)の者を取るべからず。


一、賞罰は、家老の外、これに参加すべからず。
若し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。


一、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。


一、政事は、利害を以て道理を枉(ま)ぐべからず。
僉議(せんぎ)は、私意を挟み人言を拒ぐべからず。
思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。
甚だ相争うと雖も、我意を介すべからず。


一、法を犯す者は、宥すべからず。


一、社倉は民のためにこれを置く、永利のためのものなり。
歳餓えれば則ち発出して、これを済(すく)うべし。 これを他用すべからず。


一、若しその志を失い、遊楽を好み、嬌奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。


第一条に述べられているロジックが、後々の会津藩の悲劇の遠因になるかどうかは別として、自余の律は後の「什の掟」へと純潔のままに後継・相続されてゆく訳です。しかし朱子学に傾倒しているとは言え、何故これ程、清廉・高潔な「士道」を説かなければならなかったのでしょうか。そして会津松平家は最後の藩主、松平容保公の時代まで二百有余年の太平の藩政を敷くのであります。

戦国時代

 これを鑑みますと我が先祖は全く落ち着く暇もなかったことだろうと思います。これ程支配者が入れ替わり立ち代りしているのですから。
しかし結局、この平和な政局も長州藩と薩摩藩の謀反により破砕されてしまいます。申すまでもなく、会津藩と徳川家は謀反の鎮圧に失敗します。私の先祖は会津藩でも準家老クラスでしたからA級戦犯の扱いを受けます。そして先祖は北海道へと連行され、強制的に未開の原野の開拓に従事させられます。


 祖父はこの時の屈辱を代々の当主が忘れないように現在の会社名を「石狩商事有限会社」としたようです。北海道では私の先祖はかなり辛酸を舐めたようです。

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