会津魂3

武士道精神の復興


    かつての武士階級の血を引く者は

    「大衆」を救う気概を持たなければならない。

    民主主義は正義でしょうか?  それは多分、謬見です。


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 ヨーロッパでは18世紀に至りますと、あちらこちらで市民革命が激発して参ります。絶対主義や絶対君主制に危機感を抱いた貴族に次ぐ社会階級の人々は、理不尽な王政の権力体系を解体しようと立ち上がりました。或いは1ヶ所に集積しすぎ濃縮した権力に対し、権力の分散や、権力の比重の見直しという対処法を講じました。権力を再編成した訳です。

ここにおいてもはや国家運営とは王族や貴族の専有物ではなく、良識を持った者であるならば、誰でも参加資格を得ることができるとする、「市民社会」が到来するに至ります。 
 そしてやがて市民社会は重工業社会を経ることを皮切りにして、大量生産・大量消費の社会、ラジオや新聞を主体にした高度な情報通信等に特徴づけられた社会へと開花し爛熟してゆきます。人々の生活は格段に豊かになりましたし、選挙権を有する人口も飛躍的に増大してゆきました。つまり国政に参与できる「市民」の人口が、飛躍的に増大していった訳です。ということは西欧の近代啓蒙主義者たちが夢想した、全ての人々が自律性・主体性・能動性へと覚醒するに至る「市民」の時代がやってきたのであります。
 しかしいざ蓋を開けて見たら全然違っていました。つまりかつての厳格な階級社会から釈放された人々は、自律・主体的な「存在」を確立するどころか、彼らの本姓がこれとは全く違う物であることを露呈するに至ります。自由を獲得した彼らのもつ顕著な諸特性が、実は優等的な属性ではなく、寧ろ劣勢的な属性であることが馬脚を現してしまいます。つまり彼らの諸特性が画一性、被暗示性、集団妄想性、集団行動性、政治的無関心性、複製性、受動性等であることが、一般社会における行動、政治社会における言動から露見するに至ります。これは申すまでもなく「大衆」という概念で象徴できます。

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 例えばかかる大衆の属性が顕著に露呈し始めたのは、大衆が最もナショナリズムに燃焼していた、第一次大戦、第二次大戦の時代です。これは列強においては万国共通でありますから、「ムッソリーニ」や「ヒトラー」だけを持ち出すのは公平性を逸してしまいます、しかし論旨が分かり易くなるので、あえてこの二人に準拠して申しますと、本当に大衆に国家経営に関する良識があったのならば、まず彼らを支持しませんし、本当に主体性・能動性があるのならば、彼らの政策に対し徹頭徹尾、抵抗を示す筈です。
 最近の日本に依拠して申し上げれば、大衆が国家経営に関する良識を持っているのならば、小泉元総理の政策に対し、これが実施される前から徹底的に抗戦に及ぶ筈です。彼が今の日本の劣悪な社会を作ったのですから。所が彼らは小泉元総理の発言に欣喜雀躍、意気揚々として付和雷同しました。そしてサブカルチャーに耽溺し、小さな快楽消費のなかに幸福を見出していました。今ではこの小さな快楽消費すら行えない状況になってしまったのですが。つまり彼らは自分たちの墓堀人を支持した訳です。


 大衆社会を簡略に言うならば、かかる世界とはパワーエリートと大衆からと構成される極限の二層世界だということです。かつての日本に典拠するならば、江戸時代では士農工商という階級制度があり、権力のヒエラルキーは何階層にも渡って分散していました、ですから如何に最上位階層の者が持つ権力とは言え、今日の政治権力者が持つほどの、権力の怪物ではなかった訳です。

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 民主主義政体では建前上は政治的ヒエラルキーは一階層です。何故なら日本国憲法には平等権が特筆大書されています。一階層であるが故に、知識者の一票でも、有識者の一票でも、それに準ずる知的階層(市民)の一票でも、そして何等の知的訓練を積んでいない無識者(B層)の一票でも、十把一絡げに処理されてしまいます。ですから民主主義政体においては、どんなに優秀な知識人がいても、悪政に立ち向かうことはできません。情緒や感情によって行動する非論理的で無教養の大衆の比率が、実に過半数以上を占めるからです。民主主義は無内容で、空虚な烏合の「数」が、密度の充溢する良質な「質」をリンチする政治体制です。
 かつて小泉氏は連日マスコミにショーアップされましたが、その都度、彼の支持率は飛躍的に増大してゆきました。その結果、彼の内閣の最高支持率は80%を超えました。しかし小泉氏は自民党をぶっ壊したのではなく、庶民の生活をぶっ壊した訳です。無論、彼の政治政策を批判し、警世を発していた知識人、有識者はいましたが、大衆「B層」は全く耳を傾けませんでした。大衆は自分たちを救おうとしてくれている有識者の意見よりも、自分たちの生活を破壊する三百代言の小泉氏の妄言に耳を傾けた訳です。こういうことが成立する政治形態がとてもまともである筈がありません。
民主主義は政治社会における知的無秩序と野蛮化を促進致します。



民主主義は「教養に対する〝無知の支配〟となり、〝知識に対する数の支配〟となる。」

〜パジョット


「大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがある考え、義務を持っているとなどとは少しも考えない。つまり大衆人はみずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である。」

〜オルテガ



小泉政権を支持した人々はどこまでも責任をとらなければなりません。
何故ならあなたがたが小泉氏を支持したのですから。
 
 そして民主主義体制ではノブリス・オブリージュが生成されることはありません。何故なら政治的ヒエラルキーがないからです。低階層の者は高階層の者を敬うことはせず、また高階層のものは低階層のものに惻隠を与えることはありません。つまりそこには学歴や収入の階級しかないからです。底辺階層の人々はブルジョア階層の人々を嫌味な金持ちとしか思わないでしょうし、逆にブルジョア層の人々は底辺階層の人々を品のない貧乏人としか見ていません。彼らの間には劣等感、怨恨、敵愾心、侮蔑しかない訳です。


補足


民主主義の実態とは極限の二層世界、つまり支配されるものたちと、支配するものたちの二階層のみから構成されています。ですがこれについては深入りはしません。ここではドストエフスキイの文章を紹介することで筆をおかせていただきます。彼の千里眼には瞠目すべきところがあります。

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「私は彼の著書をしっています。彼はですね、問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ、これはいわば原始の楽園ですな、もっとも、働くことは働かなくちゃいかんが。」(ドストエフスキイ『悪霊』)

小躍り  カラマーゾフの兄弟

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