会津魂2

私の中間組織のなかにある会津武士道


原子的個人は存在形成において空虚であり無能である
 当今では人間の存在を定位(確立)する方法として、未だ人権、個人主義、というものが残喘を保っています。しかし折角、個的存在を確立したと思ったら、アンチ朝鮮、アンチ中国、方や憎国心、英語崇拝、世界市民、地球市民と言ったような、広大普遍の全体的なものに同調し、そして正体もなくそこに回収されてしまいます。そして気がついてみたら金太郎飴のような均質人間、複製人間へと凋落している始末です。論文ではないので多くは申せませんが、個人主義というものは、必ずこのような全体的なものに回収されてしまいます。それは何故でしょうか。例えばヘーゲルは個に負荷されるあらゆるバイアスを捨象することをもって個という存在の構築をと説いた人です。しかしこの最良の自律的人間は有機的バイアス(家族・地域社会・伝統・慣習などの所謂、中間組織)を捨象されたことにより、このバイアスの拘束力を遥かに超脱する牢獄に幽閉されてしまうことを拳拳服膺しなくてはなりません。それは順次、開陳ゆきます。既に当今では原子論的個人は臨界状態に達しており、なにものにも依存しない自律的な個人なるものが、現実の存在形成において無能の極致であることが人口に膾炙しつつあります
例えば「私」は日本人だったり、地域社会の一員だったり、家族の一員だったり、誰かの恋人だったり、親友だったりします。それらは「私」という存在の属性であり、捨象すれば「私」が「私」でなくなってしまうほどに、優れて「私」自身であります。けれども「私」はまた性別や国籍や共同体などの、諸々の属性に帰すことのできない「何か」を持っています。畢竟、何人とも共有できず、先行するいかなる経験や思索にも照応することのできない固有の領分。しかし、その「何か」とはア・プリオリな魂の本性とか、心の本性とかいったイノセントな実在ではないのです。寧ろそれは、たわいない、取るに足らない記憶の「おどみ」や情緒の「むすぼれ」にすぎないものです。つまり「うめき」や「かこち」としてしか表出されようのないものです。
 個我(個人)とは家族、友人、仕事場、地域社会、国家(最終手段において)等にコミットすることによって形成される存在です。それらにコミットすることで初めて個という存在に肉付けがされてゆきます。無論、共同体は実体ではありません、その生成と連動して、自己解釈、自己形成、自己規定が必要であることは、論を待たないところです。個人とは空虚な同一性、至純の恒等性を維持する透明な実体ではなく、様々な関係を通して生成変化してゆく流動的な有機体です。人は中間組織にコミットすることで、固定した青白い自画像(虚像)を蒸発させ、また個というものがア・プリオリな実体ではなく、様々な関係のながれと交わりながら生成変化する有機体であることを理解するのです。
しかし当節では地域社会や家族等、所謂、個人と言う存在の一番の拠り所となる最低限のコミュニティさえもが徹底的に解体されています。最低限のコミュニティからも逐斥された人間たちは、一体何に立脚して自分の存在証明をすればよいのでしょうか。そこにはもう「原子的個人」の他は何も残留してはいません。存在するのに他からの一切の基礎づけを免除されたという、自我の形而上学化のみがあるだけです。階級、門地、地域等の中間組織を抹消した後に、俄かに隠然と醸成されてくるのが何ものにも依存しないという抽象の極限としての個なのであります。
 しかし人間と言うものは己一人だけで、自分の存在を支えられるほど強くはありません。その時個人は新興宗教に凭れ掛かったり、「~セミナー」等のマインドビジネスに凭れ掛かったり、カルト・ニューエイジに凭れ掛かったりします。或いは女性を例にとると非常に分かり易いですが、マスメディアが「3分クッキング」してくれた「アラフォー」等の女性像に正体もなく埋没し回収されてしまいます。そしてこの「3分クッキング」女性像は非常に消費のサイクルが速いです。ですからアラフォーが廃れたら、こんどは新しい女性像に同化しなければなりません。
 或いは地域社会や家族を喪失した典型的な「原子的個人」がテレビをつけたとします。そこではサッカーワールドカップが放映されています、オリンピックが放映されています、反中、反韓、反北朝鮮を扇動する番組が放映されています、そして親米を促す番組が放映されています。これを見た「原子的個人」たちは私は日本人であると、改めて再自覚し、存在の拠り所を「国家」、そして「民族」というものに見出し、求めることでしょう。いうまでもなく国家に立脚することで析出される自我感は多分に希薄なところがあります。またはグローバリゼーションを先導する番組が放送されていれば、私は「地球市民」であるという自覚を深めるかもしれません。しかしこれは国家よりもさらに希薄な自己存在の感覚しか与えてくれません。また芸能人が自分の生活圏内に纏わる有り触れた話題を喋っていれば、自然に親近性を抱き、ちょっとした知り合いくらいの感覚を持つことができるかもしれません。しかしこの知己は言うまでもなく非常に幻像的です。
 そして「3分クッキング」の女性像、新興宗教、カルト・ニューエイジにコミットすることで構築される人間存在と言うものも多分に現実的感触が希薄なところがあります。つまりコミットするべき対象が広域的であるほど、幻像的であるほど、イデオロギー的であるほど、個人は希薄化してしまいます。逆にコミットする対象が地域社会や家族といった非広域的なもの、近距離的なもであればあるほど、個人に非常に濃密な存在の感触性・実感性を与えてくれます。

人権による存在構築は空虚であり、人間を頽落させる

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 現代の日本、或いは先進国と言われる国々の巷を鳥瞰してみて下さい。人々との関係を廃絶した極限の抽象体としての個が、それ自体として自己完結した存在であるという定理、つまり原子論的個人主義がもはや臨界に達していることが分かります。余談ですが社会学者のロバート・ニスベット(1913~1996)は、個とは中間組織や共同体にコミットしてこそ成立する概念であるということを獅子吼しました。少年法の改正を見ても、人権と言う形而上学がかなり動揺していることが見て取れます。
余談ですが福田恒存(1912~1994)先生は、「基本的人権というといかにも近代的で聞こえはよいが、その基底に個人としての人格が無ければ、基本的という言葉は最低のという消極的概念にすぎなくなる。」といっています。
 人間と言う生き物は、平等主義、人権主義とう抽象的イデオロギーにコミットしたところで、まず優れた精神性を享受することはできません。無条件に与えられた資格に驕りは持つものの、それに拮抗するに足る精神性の構築を志向する人間は少数だと言えます。そして人権がいくら人間の尊厳を保証してくれるものであったとしても、それを享受しただけでは実際には尊厳に値する人間になることはまずありません。言うまでもないことですが、人間の実際の尊厳の程度、価値というものは、中間組織(家族、友人、会社、地域社会等から構成されている。)内の関係性や地位によって決まってきます。
 翻りまして、例えば論語を読めば明白であるように、人格の陶冶とか、文化的素養の涵養、高貴な精神性の確立などは純然たる個人の領域であり、努力なしには成しえない事柄です。人権が無条件に与えてくれるものではありません。それなりの徳性を構築し、そしてそれを高めたいのであれば、先ずは社会経験よりも読書に基づいた徳性の練磨が優先されるでしょう。
先ずマルクス・アウレリウス(121~180)の『自省録』を初めとして、セネカ(紀元前1年頃~紀元後65年)、エピクテトス(55~135)等の、所謂ストア学派の述作読み、或いは「最も教養深き」プルタルコス(146~120頃)の『倫理論集』を読む。(これらの著作は教科書的で非常に精神衛生上健康的で良いです。)
またブレーズ・パスカル(1623~1662)の『パンセ』を初めとして、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613~1680)の『格言集』や、ミシェルド・モンテーニュ(1533~1592)の『エセー』、つまり代表的なモラリスト文学を読むのも良いでしょう。(パスカルは実存主義の先駆ですが、多岐に渡る様々なフィールドから人間の存在低位を模索しています。ラ・ロシュフコーはアイロニーの猛毒を、或いは微毒を鋭く用いながら、道徳の本性というものを剔抉しています。モンテーニュは世俗に密着しており老巧です。)
或いはカント(1724~1804)の『道徳哲学』、レフ・トルストイ(1828~1920)の『人生の道』、ヨハン・ゲーテ(1749~1832)の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、そして彼の箴言を編成したものを読むのも良いでしょう。(カントは至純すぎて危険です。完璧な善ほど、つまり不純物をどこまでも精製され至純になった正義体系ほど危険なものはありありません。)
或いはドストエフスキー(1821~1881)の五大小説、即ち『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』等を読めば、倫理というものの深淵を垣間見ることもできるでしょう。ニーチェ(1844~1900)の雄編もまた然りです。彼は西洋の文化形成の始原まで遡行し、紛い物の道徳を解体し、本当の道徳を復興しようとしました。
皆様のなかには多分こういう群疑をもたれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。孔子とカントは道徳の教科書だが、ドストエフスキイやニーチェはそれとは対極ではないか。失礼ですがこう思われた方はどう仕様もありません。100%善では意味がないのです。己を知るには自分と全く対蹠にあるものと、異文化交流をしなくてはなりません。善は処女や童貞ではいけい訳です。悪を抱き、それに浸らなければ本当の己というものを理解することはできないのです。

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翻りまして、仮に人権の布教があまり浸透していない或る国の某国民が、これらのものを読んでいたとしましょう、彼には当然、人間の尊厳と言うものは与えられていませんが、彼の徳性の素養は、これらのものを全く読んでいない、大多数の日本人よりも明らかに高尚です。愚考致します所、人権に依存する個人の確立は、個人というものにあまり崇高な精神性を与えてくれないのが一般です。

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凶悪犯罪を犯したにも拘らず、被告人に死刑が論告求刑されないのは、人権学の知慮(愚慮)からすれば当然のことです。(左の写真に纏わる事件では、被告人の死刑が確定しています)そして民主主義において、知識・倫理・家格等においてB層選挙民が、国内政治及び国際政治においてどんな愚行をやらかそうと、彼らは主権在民たることの権利を剥奪されることはないのです。何故なら、平等論の真理からすれば、政治階級としての人間というものは教養・財産・家格に関係なく経常的に平等なのですから。

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例えば臓器移植という合法的殺人は、今日の医療的見識からすれば真理です。それで人の命が助かるのですから。少女売春もまた然りです。少女は体を売り金を稼ぐ権利があります。
しかし言うまでもなく政策を実行した為政者は、選挙民の単なる代理人にすぎないのですから、彼らの失策は当然それを支持した選挙民に帰責されて然るべきです。

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そして女性が性的快楽の清算を破棄することに起因する堕胎という胎児の虐殺も(何でも胎児は胎盤鉗子に切断されそうになると逃げるように動くそうである)女の自己決定論からすれば真理であります。
 ですから人権と言う宗教から人間の「存在」を確立するということは、人間の精神的なレヴェルをかなり劣化させることになります
ではどのように個人を確立すれば、有機的な精神性を獲得することができるのでしょうか、そしてまた高い精神性を享受することができるのでしょうか。それは伝統・慣習・家族・出自・地域・家格等から構成される中間組織にコミットすることによって成就することができます。

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中間組織に基づいた個人の構築こそ至上である
これについて私を例として申し上げます。
私の血統の出自は現在の福島県に割拠していた土豪です。江戸時代では会津松平家に御遣いした会津藩士です。ですから幼少より祖父から何がしかの「会津魂」というものを垂教されました。そして里帰りすると近隣にいる「会津義士」の末裔からも薫陶を受けました。しかし祖父の代に遡りますと祖父は実際に松平容保公(京都守護職の要路に就いていた会津藩主)と共に上洛した曽祖父から「会津魂」の薫染を受けたようです。ですから私が教えられた「会津魂」というものは、曽祖父から直接受けたものではなく、祖父を介在させておりますので希釈されているのでございます。しかしこれはマスメディアがばら撒いている平等や人権、自己決定権、個人主義と言った普遍的な抽象価値概念よりも、遥かに私にとって現実的感触があるものです。祖父や近隣の「会津義士」の末裔から賜った教えの方が、遥かに私の衷心に浸透しています。
 つまり私が普段何気なく躬行している倫理的準則には無数の先祖・先達たちの英知、清廉、勇猛が脈々と流れているような気が致します。

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私の人格・精神性のコアを作ったのは、国民国家が教育してくれた抽象的イデオロギー(左と右を問わず)ではなく、明らかに祖父や親類、そして会津藩士を先祖に方々から賜った会津の教えです。
 無論これは先祖が武士や貴族ではない庶民の人にも言えることでありまして、人間一人の単一の知性によって営まれていると錯覚される、思弁・思索・行為には無数の先達たちの経験が投影されており、それにより人間は意識的であるとないとを問わず、個人の単一の知性・力量では発揚することのできない能力を享受するに至るのであります。
つまり私の道徳観は「伝統知」のなかで涵養されたものです。
私が有する満更でもない道徳性、そして同じく満更でもない徳力、貴力、品力、倫力、審美力等は、大方、中間組織を源流としています。臓器売買、堕胎は明らかに弱いものをを苛めています。凶悪殺人を犯したに拘らづ人権派弁護士の袖のなかに逃げ込み、隠れるのは卑怯千万です。私のなかの会津の武士道精神はこれらに対し、断固として、敢然と否を獅子吼致します。

   • 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   • 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
   • 嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
   • 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   • 弱い者をいぢめてはなりませぬ

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これらの言葉を私は小学校時代に教わりましたが、これらは未だに私の行動原理の中枢にしっかりと「根」を張っています。私の先祖が会津の地に生きていたからこそ、こういうことが起こったと言えます。

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