〜新時代と会津武士道3

来たるべき新時代と会津武士道

 脱大衆衆愚社会と市民 そして会津武士道


では現代のおける上と下はどうでしょうか。即ちパワーエリート、テクノクラート(上)新興ブルジョア(中)下層階層(下)。これらの人々はどうでしょうか。ニーチェの言葉を借りれば、「権力賤民」(上)「金欲賤民」(中)「快楽賤民」(下)に他ならないのではないのでしょうか。(余談ですが新興中間層はエコノミックアニマルならぬ、エコノミック餓鬼ではないでしょうか。)現代社会はニーチェのこの言葉が、非常に高精度で実現されている社会と申せましょう。

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 人々をしてこのように俗了化たらしめたものは官僚制であり、衆愚政治(民主主義)であり、市場です。そしてこの市場はグローバルリズムの台頭によって、悉皆、アメリカン・スタンダードになりつつあります。言うまでもなく,グローバル・スタンダードとは畢竟、アメリカン・スタンダードの異名にすぎないからです。人々はこの巨大で無機質な合理的システムによって制縛され、少しの自由もままならない状態です。この普遍的な巨大なシステムにあらゆる人々が従属しています。間隙のない官僚制は国家を経営する側にとっては効率的ですが、私のような支配される側にとっては、個性を侵略され殺害されることを意味しますので、決して名誉なことではありません。ですからもう少し緩和したいところです。
 ではこの四面楚歌の状態を打破するにはどうしたらよいか。それはリヴァイアサン(国家)即ち官僚制とビヒーモス(市場)の威力を少しでも減損させることです。そしてそこに多様で豊饒な差異性や自律性を実現しながらも、伝統と疎通している社会の場を開拓することです。理想では国家権力に対抗できるエリート階級、特権を持つ地方、そして地域共同体を確立することが望ましいと言えます。
 そこで我々にできる一番身近なことは何でありましょうか。それは官僚制を更に強固にしようとする政策を掲げる政治家や内閣を支持しないことです。そしてこれは無論、市場についても然り。ですからどこまでも市場を信奉し、市場の跳梁跋扈を画策する小泉総理を支持することなど、絶対にしてはいけなかったと言うことです。つまり衆愚民主主義からの離脱あるのみです。
しかし残念ながら上述したように大衆(B層)は見るも無残なまでに衆愚政治の肥料になっています。
では上記のことを実現するためには、これらB層を主権在民にしてはいけないのでしょうか。これは論を待ちません。すべての人々の知性が成熟することなど断じてありえないからです。富野由悠季さんのアニメではないのですから。


※因みに『ガンダム』にでてくる『ニュータイプ』とは極左思想に基づいた進歩史観を源流としているようです。「赤い彗星」の赤とは共産旗の赤です。即ち共産主義の赤いカラーです。私は不覚にも高校生の頃、漸くこのことに気付きました。つまり子供の頃に極左洗脳された訳です。日本のアニメのすごい所は、高級な思想やイデオロギーを自然に織り込むことです。



以下のトロッキーの言葉はニュータイプ思想のネタ的思想と申せます。つまりニュータイプという観念は単純な進歩史観に立脚している訳です。



「やがて人間のタイプはアリストテレス、ゲーテ、マルクスの水準にまで高まるだろう。」(トロッキー『文学と革命』
「人間はその最良の状態において、すでに天使たちよりわずかに低い位置まで到達し、そして天使たちと同様に<精神の世界>において永久に前身する存在の座を定められている。」(同上)



これについては近現代の良質な知性を持つブルクハルトの至言を、クリスト教進歩史観を基調とするトロッキーの原始的な頭にぶつけてさしあげれば、これで万事こと足りるでありましょう。

「人間の心情も頭脳も歴史的時代になっても眼に見えるほど向上はしなかったし、能力もいずれにせよ久しい前に出来上がってしまっていたのである。それ故に道徳的進歩の時代に生きているという私たちの臆断は、…略…極度に笑うべきものである。」(ブルクハルト『世界史的緒考察』)

ネットメディアは御用マスメディアを凌駕する
しかし最近のことですが私はこの考えを改めようと考えています。これは院生時代に某教授より大衆蔑視を窘められたことに起因しています。
「小荒井君、大衆が衆愚政治の元凶であることは君の指摘する通りだが、人間には誰しも人間としての尊厳がある。」
この悔悛が某教授の金口に起因するのというのは無論、冗談といえますが、しかし強ち冗談とも言えません。
 私の凡眼・俗眼が見通したことですから、あまり当てにはなりませんが、愚考致しますに、大衆と言うものは底抜けの痴者や劣等者ではないということです。それを私に教えてくれたのは、ネットジャーナリズムです。

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ネットジャーナリズムは、表の御用ジャーナリズムがひたすら秘匿していることも、万目に晒す力を持っています。当節では世上からはほぼイデオロギーというものが蒸発し、極左馬鹿と極右馬鹿の人口も削減傾向にあります。何故ならネットメディアにコミットすることで得られる情報と言うものは、非常に多元的であるからです。巨大な均一的なマスメディアによる、人間の複製化時代にも終焉の兆しが見えつつあるような気が致します。かつては「人間-情報機器」のコミュニケーションには、人間対テレビしかありませんでした。例えば小泉フィーバーが繚乱している頃、どのテレビチャンネルをつけてみても、小泉総理一色であり、またそれに熱狂するファン(衆愚政治の肥やしになる人々)が画面を占拠していました。多くの人々が小泉氏のようなヒトラー並みのパフォーマンス能力、キャラクター造形力を持った政治タレントに魅了され、欣喜雀躍として衆愚政治の肥やしになりました。
 しかし当節ではネットメディアの進歩と相俟って、新聞やテレビといった従来の御用メディアによる、従前のような大衆先導が非常に困難になりつつあります。いまや人間対情報機器のコミュニケーションは、人間対テレビだけではなく、人間対Webサイトがあります、そしてこのWebサイトは多種多様なるがゆえに、そこにコミットしている人間は、一律的な複製人間になる可能性は低いと申せます。何故ならWebサイトが提供してくれる「情報」,「データ」は何百何千とあります。しかしテレビの主要チャンネルは僅か数チャンネルしかありません。そして個々のWebサイトで体系化されている知識も何百何千とあります。しかしテレビはどこをつけても同じような報道が流されていますし、またコメンテーターが似たり寄ったりのことを喋っています。
 そしてブログやツイッター(Twitter)は双方向なるが故に、受動的に情報や知
識を受け取るのではなく、能動的にこれらを発信することができます。もはや一般的な人々は情報や知識・教養を一方的に唯々諾々と受容する他律的な存在ではないということです。もはや一般的な人々が、主体・能動的に情報を取捨選択し、教養構築をし、意見を発信できるような時代状況になりつつあるということです。つまり均一・他律・画一の「大衆」たちが、主体・自律性を持った「市民」へとステップアップできる時代状況が到来しつつるということです。かかる状況をシステム的に支柱しているのが、ITを使ったコミュニケーション技術であります。
 故に当節ではテレビ、新聞、雑誌等の消毒された無菌のジャーナリズムの虚妄性に群疑を持ってきた大衆たちは、極秘シークレットがごろごろしているネットジャーナリズムのリアリティーを、飼いならされた表のマスコミ(かつての戦前の日本のようなマスコミ)、或いは「マスゴミ」よりも遥かに高く評価しています。一例を挙げれば、御用マスメディアにおいては世界と言うものは、民主主義という平等な原子的個人によって制御されているということになっていますが、実は極少数の人間が占有する巨大な権力によって経営されているということが馬脚を露呈しつつあるのであります。もう少し分かりやすく言えば、民主主義の本領とは平等にあるのではなく、極度に洗練された不可視の寡頭支配にあるのです。


均一、他律、複製の「大衆」から主体・自律・能動の「市民」へ
民主主義の実態が不可視の寡頭政治であるということを暴露したのはネットメディアですし、これをいち早く知悉したのはそこへコミットしている人々です。勿論、未だにネット世論、ネット評論、ネット時事論というものをカルト扱いしている人々も多いです。しかしこれらの人々は「ラジオがなければヒトラーは生まれなかった」という警句に象徴されるような、マスメディアが中核を担ってきた近現代の衆愚政治の時代から、精神的には些かも進歩していないのであります。この安穏たる民主主義社会にどっぷりと耽溺している人々は、情報というのが身分の貴賎を問わず普遍的に開示されているものであり、特定の立場の人々が専管的に管理することなど絶対にありえない、と本気で信じております。(ですから小泉氏のような政治タレント、政治的コメディアンの言説に踊らされて付和雷同し、盲目的に政策を支持してしまう訳です。)
が、残念ながら政治の構造とはこれほど麗しいものではありません。大衆に開示される情報などというものは残滓たるにすぎないのです。しかしまた民主主義の実態が不可視の寡頭政治であるということはもはやネットメディアだけの占有知識ではなく、表のメディアでも常識になりつつあります。つまりネットメディアには、表の御用マスメディアのありようを形成し形状する、隠然たる・歴然たる力がある訳です。
 ネットメディアのなかで、情報を享受し、そこで常識形成、教養形成、行動構築をする人々は、「大衆」ではなく「市民」的素養を持つ人々が多いと言えます。(勿論これらの人々は正規のアカデミズムも尊重しています。)これは間違いありません。ネットで論陣を張る人々には、知識人、有識者、教養人だけではなく、皆さんのすぐ近くにいうような極一般的な人々も多いと言えます。そしてこれらの人々は「大衆」とは違い、主体・能動的に思索し、行動する「市民」の特質を多分に有しています。それらの人々の解析力、教養力、そして迅速な情報収集力には優れたものがあります。つまりネットメディアには「市民的」素養を持つ人々がゴロゴロしています。そしてネットジャーナリズムの情報力、コメント力、剔抉力、影響力等は、表のB層向けに調理された御用マスメディアのそれを、遥かに凌駕しています。

私は悪政に対抗するには「中間組織」が必要である旨を上述しました。
アレクシ・ド・トクヴィル(1805~1859)はこう言っています。


「社会状態がデモクラシー的である諸国ほどに、政党の独裁…略…を防止するために団体(中間組織)が必要なところはほかにどこにもない…略…貴族団に似たものを人為的に、そして一時的につくることができなければ、どのような圧政も、とても防ぎきれるものではない。」


私は聡明な人々が集うネットコミュニティは、トクヴィルが言うところの貴族団的な、中間団体の機能を果たしていると考えます。勿論これは「大衆(B層)」が集うネットコミュニティではなく、「市民」が集うネットコミュニティです。そしてそこからは実際の接触も生まれ、共通の崇高な価値観に集う
人々たちが明確な組織性を形成しています。

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市民」から「武士」
新しい時代が到来しようとしているのかも知れません。現代の大衆衆愚社会とは違った社会が到来しようとしているのかもしれません。その社会を構成する人々は、主体・能動的であることは言うまでもありませんが、そればかりではなく、その人たちのなかには、武士の血を引いていないにも拘らず、気高さや高貴さ勇猛さを持つ人々も多少は現れるのかも知れません。
 しかし今もって政治タレントのワンフレーズ・ポリティクスに黄色い声を上げている人たちでは、衆愚政治の圧政に立ち向かうことはできないでしょう。そしてサブカルチャーや胃袋の快楽や性器の快楽に耽溺している人々では、とても立ち向かうことはできないでしょう。究極的には自分を守ってくれるのは自分しかいないのですから、覚醒する他はありません。
 私は前段であのように大言壮語致しました。かつての武士階級を先祖に持つ人は、惻隠大慈を常とし、清廉高潔の気風を尊び、不正を浄化し、不義を除染すべく、不正・不義に決死の特攻を敢行しなければならない、と。畢竟、弱者・劣者たる大衆を救う気概を持たなければならないと。しかし人々を救うには、まず自分がそれ相応の実力を備えていなければなりません。それがなかったとしたら自分の弱さ、迷い・愚さ・鈍らさ、濁り、卑俗に極限の負荷を課し、強靭・果断・聡明・鋭利・清徹・高貴へ錬成しなければなりません。
 ですから現段階においてそのような実力がないにも拘らず、向こう見ずな義憤を軽々に口にするのは少々不謹慎であり、会津武士道の「虚言をいうことはなりませぬ」に少々抵触するのかもしれません。しかしまた弱いものが危殆に瀕していたならば、身を捨てて救済に勇往するのもまた会津武士道でございますから、常に胸底に菱と抱いていなければならないでしょう。
 しかしもし私にそのような力があったとしても過剰な手助けは、大衆一人一人による自力での勇気・聡明・高潔への覚醒を阻害してしまいます。非力・非才なる私がすべきことは主に「たね」を撒きや、苗を植えることであり、瑞々しい若葉や大輪の花へはご自身の力でならなければなりません。

さて私はどうでますでしょうか。
 私は武士の血を引いておりますので、私の属性は「市民」の属性である主体・自律・能動だけには留まらない筈です。そこに高貴が加味されることでしょう。

ですから先ずは自分の足場から固めようと思います。

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 かつての会津武士が常識的にもっていた清廉 惻隠、勇猛、恬淡、叡智、審美観、倫理等を自分の詩情に香らせ、そして情操へと画き、知的な概念造形をして、そして総仕上げをしようと思います。自分の生活圏内でまず会津魂をお披露目しなくてはなりません。そして私はこのように見据えています、自分→家族→地域社会→県→関東→日本、と。些か大仰ですがこれくらいの胆力を入魂しないと、只のポーズ、冗談になってしまいます。

 四月になると日本人には桜を愛でる風習があります。上野公園にゆけば、誰彼となく桜木の下で、浮かれ騒いでいます。しかし当然、これらの「大衆人」(オルテカ・イ・ガセットの用語)が見る桜と、かつての武士階級が見た桜とでは、審美的次元において、天淵ほどの径庭があります。そしてまた武士は桜木の属性に人世観、死生観、そして教養体系等を仮託し、武士としての自分を自照致しました。

 時代の趨勢に翻弄され、不幸なことに小荒井家は武士から商人へと零落しました。しかし私はどのような時代が来ても、「会津魂」を胸奥に抱いてなければならないことを祖父から教わりました。大衆社会の溝川の一滴として、潰えてゆく訳には断じて参りません。



武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。(山本定朝『葉隠』)



私がこの言葉を知ったのは幼稚園の頃です。『ルパン三世』と言うアニメを見ていたら居合抜きの達人である石川五右衛門が、耿耿たる月代のした「武士道とは死ぬここと見つけたり」と独語し夜陰のなかをしずしずと,しかも毅然と歩んでゆきました。私は不覚にもアニメを見ることでこの山本定朝(1659~1719)の言葉と出会った訳です。冗談はさておき、この言葉は結構、曲解されております。これは決して匹夫の勇ではありません。余事ながら申し上げますと、私は院生時代、錬士六段の剣道の先生と知己でした。その方は『葉隠』のこの言葉に対して恬然と〝犬死だ〟と放言しました、そしてその後、少しも忸怩たるところも見受けられませんでした。その方と相対していると、自省のなかで己の発言を点検しているようなところもなく、赧然たるところもなかったようです。これがステレオタイプの曲解です。剣道とは所詮スポーツであると、その時私はそう考えました。この方の竹刀には「智」も「勇」も「誠」も宿っていなようでした。私はそれ以来、その先生に師事するのを止めました。知的レヴェル、教養レヴェルが低劣だからです。私はそれ以来剣道と言う「竹刀曲芸」とは決別し、居合の修練に着手しました。
命を大事にするとは只々ひたすら自分の命を過保護にし、溺愛することではありません。それでは命を安価なものにしてしまいますし、逆に命の尊厳を侮蔑し毀損することになります。命を敬うとは、命を賭けるべきときにかけ、捨てるべき時に捨てることができる、これこそが、最も命を大事にすることなるのであります。これが最も崇高なる命への尊敬と言えます。そして命を賭ける一か八の危急存亡の状況など、人生において僅か一、二回しかありません。(山本定朝が生きた時代も既に戦国の動乱期は終わっていました。)この時、どこまでも命を過保護にし、溺愛するならば、その代償は計り知れません。大事なものを失うことになるでしょう。

会津武士道を私の言葉に翻訳すると、以下のようになります。

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私はこれらの青徹清澄な魂の旋律を胸に菱と抱きます。
そして澄み白む花影を愛で清廉な太刀で卑俗・俗悪を成敗する心根を失念することは絶対にないでしょう。

弊社の建学ならぬ建社の精神は会津武士道を基調にしています。
そして弊社の経営理念も会津武士道を源泉としています。

地域貢献、社会還元、弱者への労り、不正への抵抗、人間の陶冶等に尽力してゆく所存でございます。お見知りおきの程をお願い申し上げます。  

「いざ鎌倉」ならぬ「いざ会津」でございます。

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