〜新時代と会津武士道2

来たるべき新時代と会津武士道

 官僚組織化された社会


 私は前段において個性確立に偏重したゆとり教育を批判する論陣を張りましたが、ここでは少しく弁護しようと思います。あれだけ苛烈に論難したので少々不謹慎ではありますが。

 少々重複致しますが、現代は大衆社会と評されている時代です。現代人の大多数は所謂、大衆と言われる生き物です。これらの人々の人間性は、均質・他律・没主体・没思考・軽信性・同調性・被暗示性・主我性・排他性、全体性等(非マイノリティ性)から組成されています。群馬県の諸地域のような、多様的な共同体をもつ県は、首都圏にはまずありませんし、ましてや武士道を連綿と相続している共同体などあろう筈がありません。それは我が会津くらいのものではないでしょうか。

画像の説明

ではここで大衆社会の概要を申し上げたいと思います。 科学技術の発展により大量生産方式が確立され、多くの労働者は生産ラインの歯車の消耗部品になり、代替可能な均質人間になりました。 組織機構が大規模化し、複雑化するなかで、それを合理的に解きほぐすものとして、官僚制が導入されました。この官僚制の無機質で冷徹な管理運営が、人々を均質化し、非人間的なものにしたと申せます。
 都市化、資本主義化は共同体の属性である凝集性 親密性を侵略し、徐々に共同体を解体してゆきました。人々は剥き出しの個として裸出され、存在の希薄性に浸食されることになります。喪失された共同性を再統合し、再構築したのが国民国家です。つまり寄る辺のない原子的個人は、国家と言う最大公約数の疑似共同体に回収され、「日本人」という抽象的人間として、大量複製されるに至った訳です。(因みに私は日本人ではなく「会津人」です。)これを助成したのは、国民国家の子飼いであり、営業マンであるマスメディアです。そしてマスメディアによって配信される単純なシンボルは日本全土に波及し、人々に一律的なモード、ビジョン、そして簡易化された全体主義的な思潮を植え込み、他律・没思考、没主体の人間を大量生産するに至っています。つまり現代は人間の複製時代の爛熟期と申せます。どこを見渡しても金太郎飴(どこを切っても同じ顔がひたすら出てくる)のような人間達しかいないのが現実です。
 そして官僚主義的支配体制はこの理不尽に不可視性与えるために、そして骨抜きにするために、大衆に激甚な享楽、消費を投与し、(つまりマス・サブカルチャーを投与し)人々を徹底的に享楽漬けにして愚民化します。

偉人たちの解析
 これらの感性的論理(主に文人たちの)、そして冷徹な論理概念は毒が強いので、毒が弱いものから順次、列挙しました。何故なら、毒に耐性をつけなくてはならないからです。余談ですがドストエフスキイの観念の刃物と観念の深い闇は、なかなか良いものです。私感を述べて恐縮です。翻って、しかし漱石先生はこれとは没交渉に真打に致しました。

画像の説明

「真の文明の理論。
真の文明は、ガスの中にも、蒸気の中にも、回転テーブルの中にもない。それは原罪の痕跡の減少のうちにある。
 遊牧民も、牧羊民も、狩猟民も、農耕民も、食人族さえも、すべての各人の活力により、威厳により、われわれ西欧民族以上に優れたものでありうる。
 西欧民族はやがて滅亡するかもしれない。
 神権政体と共産主義。」(シャルル・ボードレール『赤裸の心』)

 

画像の説明

「一つの世界にかわって、一つの都市、すなわち残りの部分が枯れ果てているのに、広大な諸地方の全生活の集中している一つの点が生じ、豊かな形式をもって大地に生死を託する民族にかわって、新しい流浪民、新しい寄生物である大都市住民が生じ、そして農民生活を心から嫌う無宗教で、理知的で、不生産な、また、まったく伝統のない純然たる実利的人間が、大群をなして生じ、無形式のままふらつくようになる。すなわち無機的なものに向かい、終末に向かう巨歩なのである。」(オズヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』)

画像の説明

「前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの『進歩』を嘆賞すべき努力と熱っぽい速さをもって受け取ったときは、ヨーロッパの文化は、外的には進歩して全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰退していたのである。しかし十九世紀のロシア人と違って当時の日本人は、ヨーロッパ人と批判的に対決しなかった。そしてボード・レールからニーチェに至るヨーロッパの最上の人物が、さすがに自己およびヨーロッパを看破して戦慄をかんじたものを、日本人ははじめ無邪気に、無批判に残らず受け取ってしまった。日本人がいよいよヨーロッパを知ったときはすでに遅かった。そのときはもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかしヨーロッパの最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。人々が今日でもまだ進歩の理念を信じているのは、アメリカ、ロシア、および日本だけで、古きヨーロッパではもう久しい前からそれを疑いはじめていた。」(カール・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』)

画像の説明

「永久に服従するということがどんな意味を持っているか、彼らは理解しすぎるほど理解するに相違ないからだ。(が、実際にはそれほど賢くありません。つまり理解していない。)そのが合点ゆかない間は、人間はいつまで不幸でいるのだ。しかし、第一番にこうした無理解を助長したのは誰だ、いってみろ!羊の群れをばらばらにして、案内もしらぬ道へ追散したのは誰だ? しかし羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久におとなしくなるであろう。その時我々は彼らに穏やかな、つつましい幸福を授けてやる。…彼らの生来の性質たる意気地ない動物としての幸福を授けてやるのだ。…なぜというに、お前が彼らの位置を引き上げたため誇りを教え込んだような工合になったからだ。…そこで我々は彼らに向かって、…ほんの哀れな子供同然だ、そして子供の幸福ほど甘いものはない、といって聞かせてやる。…すると彼らは…我々を仰ぎ見るに相違ない。彼らは我々の方へ押し寄せながらも、同時に我々を崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫し得る偉大な力と智慧を持った我々を、誇りとするに至るであろう。…しかし、我々がちょっと小手招きさえすれば、忽ち軽々と、歓楽や、笑いや、幸福な子供らしい唱歌へ移ってくるのだ。むろん、我々は彼らに労働を強いるけれども、暇の時には彼らのために子供らしい歌と、合唱と、罪のない踊りの生活を授けている。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。…(彼らは)子供のように我々を愛するようになる。…したがって我々に何一つ隠し立てしないようになるわけだ…こうして、すべての者は、幾百万というすべての人間は幸福になるであろう。しかし彼らを統率する幾万人かの者は除外されるのだ。つまり秘密を保持している我々ばかりは、不幸に陥らねばならぬのだ。つまり何億かの幸福な幼児と、何万人かの善悪認識の呪いを背負うた受難者とができるわけだ」(ドストエフスキイ『カラマーゾフの兄弟』)

画像の説明

「…いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。…」(夏目漱石『三四郎』)

「それでは子供が背に負われて大人といっしょに歩くような真似をやめて、じみちに発展の順序を尽して進む事はどうしてもできまいかという相談が出るかも知れない。そういう御相談が出れば私も無い事もないと御答をする。が西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏を免かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥るのであります。百年の経験を十年で上滑りもせずやりとげようとするならば年限が十分一に縮まるだけわが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易く首肯するところである。これは学問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説などを生噛りにして法螺を吹くのは論外として、本当に自分が研究を積んで甲の説から乙の説に移りまた乙から丙に進んで、毫も流行を追うの陋態なく、またことさらに新奇を衒うの虚栄心なく、全く自然の順序階級を内発的に経て、しかも彼ら西洋人が百年もかかってようやく到着し得た分化の極端に、我々が維新後四五十年の教育の力で達したと仮定する。体力脳力共に吾らよりも旺盛な西洋人が百年の歳月を費したものを、いかに先駆の困難を勘定に入れないにしたところでわずかその半に足らぬ歳月で明々地に通過し了るとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果としてまさに起るべき現象でありましょう。」(夏目漱石『現代日本の開花』)

 順序が前後致しますが申し上げます。現代の日本の巷を見ます、日本の現代社会が「神経衰弱」に陥っていっているのが分かります。短兵急な西洋化の因果応報が、現代社会において最も如実に表れています。積もり積もったものが、現代社会において爆発したのであります。
 翻ります。ボードレール、シュペングラー、レーヴィット、ドストエフスキーは何れも、西洋文明に末期的な診断を下し、余命いくばくもないことを宣告します。しかし多くの方はこう仰るかもせしれません。「それが如上の文章といかなる関係があるのか。」そう思われた方は、残念ながら教養が足りません。如上で指摘した現代文明(主に官僚制と市場、そしてそれに従属する無尽蔵の大衆の三つの成分が成る。)の終末とは、畢竟、西洋文明の終末に起因しているからでです。直截に言えば現代文明とは西洋文明に他ならないからです。そして西洋文明を洗練し、彫琢し、合理的に錬成することで一番、発展させたのは、他ならぬ我々日本人とアメリカ人です。非常に皮肉なことです。我々の先達たちは明治の御代になると西洋文明を懸命に輸入し、恐るべき生真面目さで日本に移植することに尽瘁しました。しかしその頃には既に西洋の知識階級は西洋文明に末期的な診断を下していたのです。にも拘らず幼気で邪気のない日本人は、西洋文明を熟成させ、(虚無<ニヒリズム>を主成分とする)その毒を濃縮させる道を盲進しました。しかしある人はこう仰るかもしれません。そんなことはないない、「和魂洋才」である。つまり我々は日本人の精神をどこまでも死守しながら、西洋の技術を体よく利用したのだ。はたして本当にそうでしょうか。明治の先達が和魂洋才とは言ったものの、我々は何かに対して、感性的、或いは論理的な思惟を回らすとき、どこまでも西洋の概念体系に絡め取られています。我々の精神は西洋の技術文明に侵略され尽くしています。そして言うまでもなく、その「技術」の淵源には強靭な精神性が潜在しています。この精神性を解毒して技術だけを体よく利用するというのは不可能なことです。西洋の精神とはそれほど柔ではありません。 
 日本人は活力を枯渇させた病人に賦活剤を打ち続けました。病に侵されている瀕死の老人に賦活剤を打ち過ぎました。西洋文明は既に老朽化しすぎています。
 しかし最近になって漸く日本人にも西洋文明の弔鐘の調べが聞こえるようになってきたようです。が、高度経済成長期やバブル期を一顧すれば分かるように、日本人はここまで西洋文明の鮮麗な徒花を繚乱させたのですから、その功績は嘆賞されてしかるべきです。これほど西洋文明を爛熟させたのですから。当節における市場の亡者、そしてテレビゲーム感覚で金融工学に勤しむ新興ブルジョア層、彼ら「末人」たちは、是非とも有終の花を咲かせてほしいものです。 
 そして西洋のお歴々は、滅びゆくものが、可及的暴れないように沈静化し、静かに成仏するように促進することが務めであると申せましょう。これからは我が東洋の文明が世界の中枢に繚乱するのではないでしょうか。


 世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か戦いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。
 その時、人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。(アインシュタイン)




人類の最劣化形態である大衆 それは幼児性・軽信性・被暗示性・物欲性・群化性・不平性・依存性・没主体性・他律性の属性から成る
ではこれらをもう少し馴染み深い視点から申し上げたいと存じます。当節の小学生に将来の夢を聞いてみると、女子の場合、お菓子屋、芸能人、花屋等が上位を占めるそうです。方や男子はと言いますと、公務員や会社員(サラリーマン)が上位を占めるようです。私が小学生の頃もこのような質問は当然ありました。しかし、公務員と答えようものなら、教員に「もう少し夢を見なさい。」と言われたものです。これは少々余談になりますが、なかには「正社員」と答える子供もいるようです。多分父親が派遣社員や契約社員なのでしょう。

 では何故、現代の小学生は「公務員」、「会社員」と答えてしまうのでしょうか。それは現代の日本が「官僚組織化された社会」であるからに他なりません。

将来の夢

人間にはおよそ二つの自由があると考えられます。あくまで一般論的に申しますと、一つは、自分の価値観に符合する事柄を能動的に行うことができる自由、もう一つは、自分の価値観では許容できない事柄を他者から押し付けられた場合、自分の価値様式に準拠して、それを拒否することができる自由。   
 所謂、役所で働くと言うことは、個性が殺害されることを意味します。決められた、単純な行政事務を行うだけの公務員には、それ以外のことをすることは一切求められませんし、またそれ以外のことを行うスキルも一切ありません。公務員は単純極まりない行政の事務手続きをすることで定年を迎えます。その仕事には創造性や個性といったものは、皆無・絶無だと言えます。彼らは均質・他律・画一・没主体・没個性・全体集合性等から織り成されている、「大衆人」の好個のサンプルと申せましょう。公務員には比較的、高学歴の人間が多いようですが、学生の頃の彼らには偏差値以外のパーソナリティはなかったことだろうと愚考します。つまり自己存在、自分の値打ちを証明するものとして、偏差値以外にはあまりなかったことだろうと思います。社会人としての彼らはどうでしょうか、単純な行政事務ができるというパーソナリティ以外はあまりないのではないでしょうか。公務員の世界は上意下達です、故に上記した自由の内の一つもままならないのが現状であると申せましょう。

 方やサラリーマンの世界はどうでしょうか、求められている人材は、とにかく上部の方針に服従する人間、また上司の言うことに対して従順な人間、また自己主張の少ない人間です。人間の発達はお互いのパーソナリティを激突させることで促されると思うのですが、サラリーマンの世界においてはそれがあまり許されていないのが現状です。上司との僅かな意見の食い違といったことならまだしも、上司との明確な意見の対立を確立するとなると、その人の社員生命にも拘わってきます。そしてまた自分の能動性、個性の封印を余儀なくされることが仕様がないとしても、上司からの業務命令が下れば、それが自分の価値観に反するものであっても唯唯諾諾と服従する他はありません。
既に古い言葉かもしれませんが、「社畜」という言葉は一律的に行動する、牧場の動物のイメージをサラリーマンに投影したものです。

では工場の労働者はどうでしょうか、それはいわずもがなです。
つまり公務員にしろ、サラリーマンにしろ、工場労働者にしても、個性を去勢された、均一人間なのであります。彼らの生態は均一・他律・画一・没主体・没個性・同調性、全体集合性によって織りなされています。くしくもこれは現代の思想家、社会学者、政治学者が定義した大衆の概念規定とピッタリと符合します。

 大人の社会がこうである以上、名門私立学校の運営方針は、偏差値の高い、個性のない、どこでも運用可能な便利な均質人間を生産することこそが、一番、間違いのない教育様式である、と定義することでしょう。

画像の説明

学校をして、金太郎飴のような便利な均質人間を大量生産する工場であると捉えるのも、詮無きことかもしれません。そして子供たちはどうせ金太郎飴になるのならば、工場労働者よりは、公務員のほうがましであり、得であると考えることでしょう。当然、子供たちにはこのことを明確に概念化できる知性はありません、しかし感性の次元において、このような時代状況を鋭く洞観していると思います。どうせ官僚組織化された世界で、交換可能な組織の歯車として生きるのなら、少しでも負担が軽く、給料が高い仕事に就く方が得である、と。そしてそのためには高い偏差値を取らなければならない、と。子供たちはもはや、個性は偏差値でしか表現できないと考えることでしょう。ということは、裏を返せば、偏差値の低い子供は、パーソナリティの拠り所となるものが何もないと言うことです。
 ここで或る言葉を引用致します。


「陰気くさい法律事務所の職員、大官庁の事務員諸氏よ、諸君は、毎朝、いまわしき牢獄の戸口に、ダンテの有名な一句を読まれるにちがいない。
 曰く、「汝ら、ここに入りきたるものよ、あらゆる希望をすてよ!」
二十歳で、はじめてここに入ったら最後、六十歳あまりまで、ここにとどまる。そして、その長い時期の間に、格別のことは起こらない。全生涯が、緑色の壁紙をはった、始終相も変らぬ、ほの暗い、小っぽけな事務所のなかですぎ去る。人は、年若く、溌剌たる希望の時期に、ここに入るが、ここを出るころには、年老いて、死も真近い。思いかけない事件とか、甘美な、あるいは悲しい恋愛とか、冒険的な旅行とか、自由な生活に伴うあらゆる偶然事、つまり、われわれ、一生の間にとり入れるそうしたかずかずの思い出などは、一切、こえらの苦役囚人には無縁なものである。

画像の説明

 どの日も、どの周も、どの月も、どの季節も、どの年も、まったく似たりよったりである。同じ時刻に出勤し、同じ時刻に昼食をし、同じ時刻に退出する。これが、二十歳歳から六十歳までつづくのだ。画期的な事件といえば、僅かに四つ。すなわち、結婚と、総領の誕生と、父の死と、母の死とである。ただそれだけだ。おっと失礼、昇進があったな。
 …大工は宇高くよじのぼる。馭者は、街頭に車をはせる。鉄道の機関手は、森や草原や山間をつっきり、絶えず、都会のそと囲いを出ては、海を見はらす一面青々とした広い展望のきくところへ進んでゆく。だが勤め人は、事務所を、この生ける人間を葬る棺を離れられないのだ。そして、彼は入所の日に、ブロンドの口髭をはやしい若々しい自分の姿を映したその同じ手鏡のなかに免職になった日には、頭がはげ、髪の白くなった自分の姿を映して、つくづくと眺めるのである。それで、万事おしまいだ、人生の幕は、とじられ、前途は、ふさがる。どうしてまた、早くもこんな羽目日になってしまったのだろう? 何尾変哲もなく、人生の意外さに少しも心を動かされたこともなくて、いったい、どうして、こんなに老いこんでしまえるのだろう? だが、これが、真実なのだ。若いものに、若手のばりばりに席をゆずれ!との声があがるのだ。
 そこで、彼が職を去るのは一しを哀れだ。そして、ほとんどすぐに死んでしまう。毎日事務所に通い、同じ時刻に、同じ動作、同じ行動、同じ仕事をする、その長い期間の一途な習慣が、突然絶ちきられるので、死んでしまうのである。」(ギイ・ド・モーパッサン『水の上』)



 翻りがえります。私がまだ子供の頃のことですが、近所を散策していると、今とは違った景色がたくさんありました。豆腐屋がありました、畳屋がありました、大工さんがいました、そして理容店がありました。私はまだ大工さんがカンナで木材を削っている光景を鮮明に覚えています。
しかし今では豆腐はスーパーで買います、畳の張り替えも畳職人には頼みません、住宅を建てるのは大工ではなく、「~ハウス」等の大手の住宅メーカが一手に施工します。また散髪するのが1000円もかからない世の中です。
 現代では豆腐は製造ラインで生産されます、畳も製造ラインで生産されます、住宅の建材も製造ラインで作られます。つまり大工も、畳職人も、豆腐職人もまったく必要ではない訳です。そしてラインを操作するのは、その分野にほとんど造詣のない、まったくの素人たちです。私は群馬県の田舎に住んでいますが、近場には大きなショッピングモールがあります(あまり近所ではないですが)そして多国籍企業の支店があります、大手スーパーの支店があります。かつての職人たち、かつての商店街の店主たち、そして小規模の自営業者たちは職を奪われ、いずれもこの巨大なヒエラルキーのかに回収されてゆきました。自分のプライドを捨て去り、スキルを捨て去り、巨大な組織のなかの微小な歯車として生きてゆくことを余儀なくされました。歯車はガタがきて使い物にならなくなれば、すぐに他のものと交換されてしまいます。所謂、使い捨ての消耗部品である訳です。

画像の説明

社会の官僚組織化が人間を均一化したと上記しましたが、ここでは技術革新が人間を均一化している旨を申し上げました。新来のテクノロジーと効率至上主義が人間を均一化していると言えます。匠の「技」をパーソナリティの拠り所としていた職人は、自己存在の拠り所を喪失した訳です
 そして新自由主義は世界規模で人間を同じ価値観や規範へ同化させようとしています。民族や文化の多様性を抹殺しようとしています。かつての国民国家が自国民にしたことが、今では世界規模で行われている訳です。国際化の最前線にいる人々、民間では多国籍企業の社員でしょうが、かかる国際人をして藤原正彦さんは『国際版ホームレス』と定義しました。
こういう社会環境のなかにおいて、人間のレヴェルを計測する目安となるものは、主に偏差値(学歴)や経済的階級(収入)しかない訳です。ですから人々は孜々として、お金儲けに恪勤します。そして中産階層以上の子供たちは、孜々として高偏差の獲得に精勤します。

ニーチェ

かつてフリードリッヒ・ニーチェはこう言いました。
「上を見ても賤民、下を見ても賤民。」
 私は前段においてゆとり教育を批判しましたが、代替不可能な個人を確立するという理念は、決して間違ってはいないと思います。しかしそのやり方が軽佻浮薄極まりないと言えます。少年の頃に培わなければならない学力を議牲にしてまで、これを追及しても意味がありません。豊饒な学力とは個生を開花させるための基礎的な土台になり資源になるのですから。学力向上のために出費すべき時間と労力を、個性確立に傾聴させ、社会の最底辺に落ちぶれても何の意味もありません。社会に出てから如何に個性を繚乱させるかが枢要なことと言えます。また個性を発揚するには官僚組織化された社会に適応しなければなりません。そしてその正体を知悉しなければなりません。そうでなければ大幅な逸脱は留まるところを知らないでしょう。お祭り騒ぎに騒ぐのはいつの時代でもB層の所業です。

「彼(敵)を知り己を知れば百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知るは一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆うし。」(『孫子』「謀攻篇」)

               >>脱大衆衆愚社会と市民 そして会津武士道を読む

powered by Quick Homepage Maker 4.9
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional