〜新時代と会津武士道

来たるべき新時代と会津武士道

 ゆとり教育の目的は階級格差の確立と固定にある


 凡そ10年くらい前に現代の社会状況、社会構造を予見するような本が出版されました。それは三浦展さんの『下流社会 新たな階層集団の出現』です。発刊された当初は非常に衝撃的なインパクトを放っていました。そしてこれを先陣として「格差社会」に纏わる本が、相次いで発売されるに至ります。しかし最近では「下流社会」「格差社会」という文字を眼にしても、人々はそれほどの衝撃を感触することはありません。つまり既に一般的な認知を確立していると申せます。一連の本を卒読した結果、私が気になった所を大まかに概念化してみますと以下のようになります。

社会階層(文化・経済・家格等)は円滑に親から子供へと後継、相続されてゆく。つまり中産階級やブルジョアジーの家庭に生まれ育った子供は、将来においてもそのような社会階層に位する可能性が高い。片や下層階層に生まれ育った子供は、将来においても当該の社会階層に従属する可能性が高い。


しかし無論、下層階層の人々は自分たちよりも上位の階層を構成する人々に対し、劣等観や、敵愾心を持っています。のみならず政治エリートの国家運営に対しても、憤懣やるかたない思いを持っています。そこで政治エリートは下層階層の人々の不満を鎮静化するための便利な道具を用います。つまりナショナリズムとサブカルチャーです。サッカーワールドカップ、或いはオリンピックに熱狂し、そして反中国、反韓、反北朝鮮というムードに無思慮に同調し、高揚している最中は、日本人という最大公約数の抽象の中で、自分たちの下層階層と言う具象を蒸発させることができるでしょう。
そして食べ物、ファッション、レジャー、美容、恋愛カルチャー、そして「冬の~」(かなり古いですが。何せ私はこれ以降テレビをみておりませんので)に象徴されるような映像文化、ボジョレーヌボー、ネットメディア等に纏わるあらゆる娯楽に耽溺していれば、自分たちが属する社会階層を一時ですが忘却することができます。しかしこれではいけない訳です。これを直視しないことには何も始まりません。

   余談ですがジョン・レノンは下層階層の人々をこう皮肉っています。


「君たちは宗教やセックスとテレビにどっぷりと浸かっているといい
そうしたら君たちは自分たちが利口で差別もされずに自由なのだと思い
こむ、だがぼくの見るかぎり君らはしがない百姓さ、労働者階級の英雄
になるのは大変な事だ。」


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ですから先ず親たちがサブカルチャーとナショナリズムから脱却しなければ、何も始まらない訳です。自分たちが帰属する社会階層を直視しなければ何も始まらない訳です。

ゆとり教育とは落ちこぼれる生徒を根絶しようというのが、そもそもの理念的な端緒でした。ゆとり教育の論理を素描致しますと、学習指導要領を大幅に改悪し、授業時間を削減し、精選に基づいて学習内容を削減すれば、全ての子供たちの授業の理解度が増進し、平均的な学力が共有されるというのでした。しかし結果は純理の軌道から全く外れてしまいました。ゆとり教育が招来した総体的な学力の低下は深刻な事態ですが、ゆとり教育にはそれよりも遥かに深刻な副作用があります。否、歴然たる因果作用があります。畢竟致しますところ、もはや覆ることのない学力格差、教育格差というものが構築されるということです。
 確かに学習内容が削減されたことにより子供たちの勉強のストレスは軽減されたのかもしれません。しかしストレスが緩和されたとはいえ、それが新たなる学力構築へと繋がる訳ではありません。そして言うまでもなく、それなりの大学を目指した場合、大学入試において「教えられていない問題」が普通に出題されます。故にゆとり教育に基づいた授業を理解していても、「教えられていないこと」が出題されれば、もはやお手上げ状態である訳です。つまり学校の授業をきちんと理解していても全く歯が立たないということです。
では歯が立つようにするにはどうしたらよいか。それは子供を通塾させ「教えられていないこと」の知識を塾で教えてもらう必要があります。つまり学校で獲得できなかった学力の不足を塾で補完する必要がある訳です。


無論、入塾するにはお金がかかります。塾に通うことのできない社会階層にある子供たちは、既にここにおいて敗北してしまいます。そして中産階層・ブルジョア層に位する子供たちは、はなから公立にはいきません、中等科から私立に入学します。

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そしてこれらの子供たちの親たちは、ゆとり教育に汚損されている公立には子供を入学させようとは考えないことでしょう。また私立に入学するには通塾や家庭教師を雇う等の潤沢な資源が要請されて参ります。何故なら合格するためにはそれらを投じて、万全の偏差値を構築しておく必要があるからです。しかしこれは経済的資源ばかりではありません、その家庭の文化・教養・家格・経済・価値観・審美観等のレヴェル等も濃厚に影響して参ります。何故なら社会階層とは経済的階級のみを指摘する概念ではないからです。

ここで一顧してみましょう。管理教育、詰め込み教育(インテリジェンスの欠片もない非常に悪質な造語です)が公立学校において実施させていたころは、授業内容を正確に理解していれば、それなりのレヴェルの高い大学に行くことができました。これほど平等な社会は日本以外にはありませんでした。例えばヨーロッパですが、子供の将来の社会的地位は親の出身階層によって制約され半ば規定されてしまいます。つまり親がブルーカラー、或いはガテン系の社会階層ならば、子供もかなりの確率でそのような社会階層へと位置する可能性が高いと申せます。
しかしかつての日本は偏差値一つで成り上がれる稀にみる平等社会でした。偏差値だけで階級間の移動ができた訳です。所がゆとり教育が実施されたことにより、階級間を越境するためのパスポートがなくなってしまいました。

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これはゆとり教育の思わしくない副作用ではありません。予定通りの結果です。つまりゆとり教育とは階級格差を固定化させるための詭謀であった訳です。ゆとり教育を支持した親の世代とは、社会において底上げが最も隆盛を極めた時代、つまり大衆消費社会の最盛期に青年であった親の世代です。そして社会階層で言えば底辺階層(B層)の人です。


これらの人々は平等という宗教に耽溺し、その悪酔いからまだ醒めることができなかったようです。「大衆」(B層)は「平等」というような耳触りの心地よいコピーが大好きです。支配層はこのことを知悉しています。しかし大衆の単純な嗜好性にこれ程露骨に付け込むのはどうかと思います。無論、付け込まれるほうにも責任はありますが。


それにしても何故私はこのようなことを申し上げたのでしょう。それは言うまでもなく偽善を撃つためです。真実とは残酷なものですが、これを受容するところから全てが始まります。偽善を撃つ、これこそが会津武士道です。
人間には階級格差(文化・教養・家格・経済・価値観・審美観等の)があります。しかしこれは致し方ないことです。中産階級、ブルジョア階級の家庭に生まれ育った若者たちは、アカデミズム界に進んだり、官界に進んだり、法曹界に進んだり、金融界に進んだり致します。片や下層階層の家庭に育った子供たちは、高卒という親の学歴を引き継ぐ人々が多いでしょうし、自身もブルーカラーやガテン系の仕事につくことになるでしょう。ここで絶対にしてはいけないことがあります。

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中産階級・ブルジョア階級の若者たちは、このような底辺階層の若者たちを決して侮蔑してはならない、ということです。無関心でもいけないと思います。ノブリスオブリージュを胸にしっかりと抱き、下層の若者たちに惻隠大慈を持って接しなければなりません。そして国を変えられるのはこういう社会階層にある人々なのですから、自分だけの利益追求に走るのではなく、公を第一に考える気骨を持ってほしいと思います。それが社会階層の高い者の勤めだと思います。くれぐれもかつてのIT長者のような俗物にはなってはいけないということです。
かつての武士階級がもっていた。ノブリスオブリージュを持ってほしいと存じます。そして脱ゆとり教育こそが階級間の流動性を活性化するのであります。偽善を撃ち、ノブリスオブリージュを胸に抱くのが武士道です。私の社会階層はお世辞にも高いとは言えませんが、私よりも低い人に対してはノブリスオブリージュの精神で接するつもりです。そして偽善を撃つ気骨を常に持ち続けたいものです。
 因みに当節の上流人は精神の高貴さにおいて卑陋であり、使い物になりません。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤の上下のさべつなく……されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。


ですから弊社は学歴、スキルを問わず、人材の陶冶に邁往してゆくことを社是と致しております。何人(なんぴと)であろうと教育の機会は平等に与えなければなりません。


※それにしても平等の要求、それを醸成するルサンチマン思想と言うものは何を根本にして生まれるのでありましょうか。ニーチェによればこの世には富者と貧者、賢者と痴者、貴者と賎者、強者と弱者が存在し、その序列が存在すると言う動かしがたい事実を否認することから始まるとされています。つまりルサンチマン思想は劣った者達の願望から、全ての人間は平等でなければならないという形象を持って身を起こすのです。日本では強制平等が義務教育において、成績表、運動会等において遺憾なく実行され、できの悪い子供を標準値にすることによって、自余の子供の向上を阻害するという惨状を呈したのは、別段記憶に古いことではありません。そしてこの思想をどこまでも精製し純化してゆけば、現実否認に陥らざるを得ないのです。なぜなら現実の社会とは厳酷なまでに優劣の厳存する舞台だからであります。このようなルサンチマン思想を根本から問い直し、批判すること、これが不平等の思想とレッテルされている「階序」の思想です。
 今日の日本の社会においては、しばしば富者・貧者、賢者・痴者、貴者・賎者が存在すると言う事実と、「強者の論理」とを混同する傾向が顕著です。人間の社会は弱肉強食、優勝劣敗の秩序の上に、倫理的・審美的秩序が織り上げられた世界だと言えますが、そこに「強者・弱者」という秩序が存在する事実を首肯すること自体を「強者の論理」であると強弁するのは、単なる現実の否認に過ぎないでありましょう。これは明らかに精神疾患です。


補足


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 ここで拳拳服膺しなければならないのは、福沢諭吉は人間は生まれながらにして平等である、というような、甘く、ぬるいことを言っているのではありません。彼は人間には激しい社会階級の格差があるということを明言しています。福沢はつまりこういっています、学問と言う知的兵器を手に取れば、階級間の移動が可能である、と。学問こそが階級間の流動性を高めるのである、と。ですから底辺階層に生まれたものでも学問に刻苦勉励すれば、階級を越境できる可能性があるということです。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

 因みに彼は実学に偏重しすぎているので私は好きになれません。福沢は学問の蘊奥のなんたるかを知らないようです。彼は学問においては論理と情操が一対であると言うことを全く理解していないようです。彼の学問観には無機質な論理しかない。日本文学の美しさも分からない人間に学問など分かる筈がありません。福沢のこれらの言葉を眼にすると、強烈な映像が脳裏にデッサンされます。農具や工具を持っていた汚れた手が、実学の本を必死に掴もうとしている生々しいビジョンが。福沢の学問からは農具や工具のなまぐさい匂いがしてきます。彼は農具や工具を握っていた手であっても、それを本に持ち返れば、底辺階層から這い上がることができると、説いています。福沢の学問観とはボトムを脱出するための、即物的な兵器、成り上がりの兵器である訳であります。余談ですが私は学問をこのように捉えています。

大人の学は道のためなり、小人の学は利の為なり。(楊雄)


 例えば空手道ですか、流派によっては、空手に勤しむ競技者は、飛瀑に打たれ、また寒稽古をします。考えるまでもなく、強くなるための最短の距離は、どこまでも合理的に技術を研ぎ澄ますことです。では何故敢てこのような非合理を求道するのでしょうか。それは無機的な技術に有機的な情操(心)を導入するために他なりません。情操の崇高な血潮が廻らない拳や足は冷たい無機的な凶器にすぎません。そして情操とは精神の位階において論理よりも上層に位置するものであり、合理的な概念形成には不向きです。それは上述した「飛瀑」や「寒稽古」等の非明示的な修養体系に参与することで感得することができるものです。技術、自らが首座につき己自身を制御するというのは果てしなく危険なことです。何故なら技術自らが司令塔になるとすれば、己の合理性をどこまでも無機質に追究してゆくからです。かつてIT長者が金融工学の合理性をどこまでも無機質に磨ぎ澄まし、蛮行を働いたことは別段記憶に古いことではありません。金融工学とは情操のない実学の最たるものです。ですから技術は情操に従属することによって初めて常識を獲得することができるのであります。 「衣食足りて礼節を知る」と申しますが、衣食が足りたらもう「利」を貪欲に求めるのは自戒し、今度は「道」を求めたらいかがでしょうか。学問とは社会階層の違い、そして精神の貴賤において追い求めるものが、かなり違って参ります。

「真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった何も役に立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教義を背景として、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。」

この藤原雅彦さんのエリートの定義は正鵠を射るものであります。そして教養形成のあり方も。昔、某大河ドラマを見ていましたところ、某政府高官が「国家百年の大計」という言葉を持ち出し、「征韓論」の主唱者を掣肘するシーンがありました。これはともかくと致しまして、遠大で崇高で細密な計画を実現する上でその中枢を担う、或いは根源となるものは、何の実利にも直結しないような学問です、畢竟、博大な「文学、哲学、歴史、芸術、科学」等の学知であります。あらゆる実学知というのは、巨大な計画を機動させるための各動力部、歯車にすぎません。勿論、昨今では先鋭化しすぎた技術が、逆に上層の概念部を指導するという倒錯現象が起きています。

                          >>官僚組織化された社会へ

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